Profile

村山康文
フォトジャーナリスト
1968年兵庫県生まれ。主にベトナムの社会問題をカメラとペンで追いかけ、弱者を守る立場からエイズ・戦争・人権・差別などをテーマに各地で写真展や講演会を開いている。
京都在住。

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第6回国際平和博物館発表レジュメ公開
今月7日に第6回国際平和博物館会議において、私が発表したレジュメを公開いたします。

論文、レポートなどに引用される場合などは、出典先を必ず明記してください。特に写真を転用する場合は、必ずメールにてお知らせください。
私も引用している箇所がありますので、ひとこと声をかけてくださると嬉しく思います。

メールアドレス:yasumu43@hotmail.com

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ベトナム・
戦後報道と平和博物館における写真の役割


フォトジャーナリスト 村山康文

<前置き>

ただいまご紹介に預かりましたフォトジャーナリストの村山です。どうぞよろしくお願いいたします。

昨日、いくつかの分科会に参加させていただいたのですが、大変有意義なものであったと思います。人々が、それぞれの考えをぶつけ合い、ディベートすることが「対話」であり、「争い」の一番の解決方法だと感じました。この会議が実りあるものになるよう、私も努力したいと思います。

今からスライドをご覧いただきながら、発表をいたしますが、まず、覚えておいて欲しいことがあります。

①それは、メディアというものは、社会環境と権力を正確に監視する「Watch Dog」(監視役、番犬)であり、大衆は、メディアの怠慢や横暴を厳しくチェックする「Watch Dog」でなければならないということ。

②そして、私は、今日、ベトナムをサンプルにあげますが、これは、どこの国においても全く同じことが言えるということ。

この二つを覚えておいていただければと思います。


1.はじめに

ベトナム戦争を追い続けた報道写真家の石川文洋氏に初めて出会ったのは、1998年、私が29歳の時でした。その年、京都・大阪で開催された第3回世界平和博物館会議に参加させていただく機会を、私は運良く得ることができました。

当時、「戦争」や「平和」などという言葉にまったく無縁で無関心だった私が、現在、フォトジャーナリストとして、「平和の必然性」のため、社会問題を多くの人々に発信することが出来るのは、10年前の石川氏との出会いと、今年6回目を向かえる国際平和博物館会議に参加したことがきっかけだと言っても過言ではありません。

あれから10年、私はベトナムを追い続け、年に2、3度訪越し、弱者の声にならない声を記録し続けています。歴史上では75年4月30日に終結したベトナム戦争が、現在、貧困、格差、差別、麻薬、HIV/AIDSなどの様々なものに変容し、未だに傷痕を残しているということに気づきました。

今回は、ベトナムの戦場報道と戦後報道、また、平和博物館における写真の役割について言及したいと思います。


2.ベトナムの戦場報道と戦後報道

ベトナム戦争は報道関係者に開かれた戦場でした。北ベトナム軍とアメリカ率いる南ベトナム軍の双方が報道陣に従軍を許可し、直ちに戦場の様子を世界に伝えました。その報道は、社会に大きな衝撃と様々な影響を与えました。特にアメリカでは、泥沼化していく戦場の様子や北爆に関する報道は、テレビ局や新聞各社が自主的に規制する風潮が高まりました。メディアは真実を伝えなくてはいけません。にも関わらず、米国メディアは、ベトナム戦争中、アメリカ優位の報道を行い、社会及び視聴者を誘導したのです。

アメリカ政府は、ベトナム戦争時に戦場報道の重要性を認識し、以降の湾岸戦争を初め、メディアコントロールに力を注いでいくことになります。この際の戦場報道は、その後の報道のあり方を様々な面で変えていきます。

ベトナム戦争中は、様々な世界のメディア及びフリーランスの報道カメラマンや記者が戦争の真実を伝えようと駆け巡りました。しかし、ベトナムにおける戦争後の報道をしている報道関係者はほとんどいません。

なぜでしょうか。私が考えるいくつかの問題点と解決案を提示してみます。

ベトナムの戦後報道に関して言えば、【問題点】が3つあると思います。

まず、ひとつに、
① 現在のベトナムがメディアに対して開かれていない
国境なき記者団発表の「2007年 報道の自由度」によると、169の国と地域において162位という最下位から8番目という低い位置にベトナムはあります。ベトナムで報道許可証(プレスカード)を取るまでに長い時間を要するケースがある場合や取ることが出来ないケースもあります。

つぎに、
② ベトナムの枯れ葉剤被害者報道に関して言えば、奇形などの症状と枯れ葉剤の因果関係を証明できていません。その因果関係を証明していくのには、長い時間を費やし、その時間を作ることが大手メディアには出来ません
現在のところ、奇形などの症状と枯れ葉剤の因果関係において、明らかにされていないのは事実です。医学的、科学的に証明されたものを報道する必要性があります。
  
そして、
③ 報道関係者自身がベトナム戦争は終わったものであると認識し、戦後報道の必要性を感じていません
ベトナム戦争後もアメリカが関与する戦争が世界のあちらこちらで起きています。次から次へおきる戦争そのものの方へメディアは進出し、終わったとされる戦争には真剣に向き合おうとしません。

この3つが原因になっていると思われます。

次が私の考える【解決案】です。

ベトナム戦争後に生まれた世代に現れている重度な疾患や症状。奇形と枯れ葉剤の因果関係の証明するためのデータが、まだ今のベトナムには少ないのです。まず、このデータ収集をすべきなのですが、現在のところ、ベトナムに金銭面及び専門家の調査に関して余裕がないのが事実です。

この部分を補わなければなりません。

そのためには、ベトナムは、メディアに対しての垣根を低く設定し、枯れ葉剤被害者たちと連携して世界へ報道する姿勢を示すことが必要だと思います。

また、世界のメディアは、因果関係、衝撃度にとらわれず、「戦後のベトナム」という観点から「戦争」を報道する姿勢を示す必要性があると感じます。


3.平和博物館における写真の役割

平和博物館においては、戦時中の惨劇だけを取り上げる展示に私は疑問を持ちます。戦争というものが、戦後にあらゆる悲劇を残すのは事実です。もちろん、惨劇の中では人びとは涙し、苦しみます。「戦争」がないことを「平和」とは言わないとしても、私は、「平和」という言葉に「希望」を見出したいと考えます。

私は、2007年7月~8月半ばにかけて、ベトナム・ホーチミン市立戦争証跡博物館において写真展を開催させていただきました。49枚の写真展示の中には、ベトナム戦争後、何らかの障害や心に深く傷を負っているにも関わらず、必死に生きる人々の美しさ、すなわち、個々の人生に輝き持った人びとの姿を追ったものを多く展示しました。

その展示は、たくさんの来場者の目にとまり、本当の意味での「平和」や「希望」を与えたと考えます。

博物館での展示期間中、次のような意見を私は耳にしました。
「笑顔の写真を見ると戦争というものがどれほど愚かなものであるかを考えさせられる」
「(ここの博物館全体を見て)この展示には、心が和む瞬間があった」
「何かしらの勇気を感じとることができた。次の行動へ進む努力が必要だと感じた」

真実を写す意味での写真には、大きな力を感じる瞬間があります。例えば、文章だけで物事を伝えようとするときにたくさんの文字に労力を使ったとしても、受け手にも同じ、もしくは、それ以上の労力を必要とします。しかし、芸術的な写真はともかくとしても、ジャーナリズムの写真には、その必要性を感じません。

私が、今後の平和博物館に望むべきことは、文字よりも写真を増やし、かつ、将来への展望を表すような展示ができるよう期待します。


4.まとめ

私は、ベトナム戦争においては未だに終わっていないと考えています。今後、同じような戦争・惨事を繰り返さないためにも、現在のベトナム、いわゆる戦後のベトナムを伝える必要性をひしひしと感じています。

ベトナムの戦後報道の必要性は、戦争の撲滅、恒久平和の可能性を追求する意味でもメリットがあるのではないでしょうか。


<写真説明>

【資料】(撮影:村山康文)

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父が枯れ葉剤をあびた
彼女の名前はドー・トゥイ・ユンさん(撮影当時18歳)。彼女の父親は、若いころにベトナム最南端のカマウ省で農業をしていた。そこで米軍が散布した枯れ葉剤をあびた。現在のところ、父親と彼女のひとつ下の弟に枯れ葉剤の影響と思われる症状はみられないが、彼女は写真の通りである。右耳は聞こえず、右目はない。右の頭に血はあまりなく、柔らかい。左足を引きずって歩く。
(2006年2月 ホーチミン市)

2006年9月、彼女を日本に招き、京都大学医学部附属病院で手術を行なった。担当の形成外科医と医師団は、「彼女は、枯れ葉剤の影響である可能性は極めて低い」との診断を下した。ベトナム政府からは、「枯れ葉剤被害者である」と認定され、わずかばかりの支援を得ている。



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母と子
ホーチミン市にある中華街(チョロン地区)で物や宝くじを売る仕事を家族でしている。
母40歳。長男11歳。長女9歳。次男11ヶ月。
長男と長女に枯れ葉剤の影響と見られる障害が出ている。
(2005年8月 ホーチミン市)



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駆ける女子学生
統一30周年記念式典のパレードに参加する女子学生
(2005年4月 ホーチミン市)

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by yasumu43jp | 2008-10-09 00:38 | 資料
「どんなに苦しくても どんなに辛くても 人生に失敗はない」
「どんなに苦しくても
 どんなに辛くても
 人生に失敗はない」
      村山康文


今年の夏、ベトナムでの取材中に生まれた言葉。


あるHIVポジティブの男性(50代半ば)と半年振りに会い、
彼と話をしていたとき、この言葉をプレゼントした。



彼とは2002年9月からの付き合いになり、
初めて出会ったのが、ベトナムのエイズ・ホスピスだった。

初めて出会った日のことを今でも思い出す。

両足を失い、車椅子で生活を送る彼は、
「どこのどいつだ!?」というような顔で僕を睨みつけた。
一言も言葉を発さず、ただ睨みつけられた。

それから半年後、またホスピスを訪問する。
また半年後。

次第に僕と彼の距離が縮まってくる。

約2年経っただろうか。

彼は、僕に自身の人生を話してくれた。


「父が金持ちだった・・・。
父の金で若いころ、毎日、遊び呆けた。
ディスコ(クラブ)へ行けば、
手当たり次第に女を引っ掛け、夜を共にする。
天国のような生活さ」

苦笑まじりに彼は続けた。

「あのころ、ベトナムは戦争してたよ。
父は南部の人間でさ。
よくアメリカ人とつるんでたのさ。
戦争終結後まもなく、北部の人間が父の財産を根こそぎ奪ったんだ。
家も土地も金もすべてさ。
何もかもがなくなっちまった」

「すべての財産を?」

「ああ。
命はとられなかったが、命以外のものは何もかもなくなっちまった」

「はあ・・・」

「でさ・・・。
俺も遊べなくなっちまったんだよ。
金がなくなっちまったから・・・」

彼はゆっくりと続けた。

「さあ、どうしようか・・・?
そのとき、ディスコで知り合った連中が、
麻薬の売買を手伝ってくれないかって声をかけてくれたんだよ。
『いい金になるからよ』って」

「で?」

「もちろんやったさ。金が手に入るんなら何でもやるさ。
そうこうしてるうちに、麻薬の売買した金で女遊びしてさ。
そのうち自分でもヘロインやるようになってさ」

「・・・・・・」

「どのくらい遊んだかわからない。
そしたらな。
ある日、風邪気味だと思って病院に行ったんだよ。
じゃさ、医者が言うのよ。
『あなた、HIVに感染しています』って。
自分の耳を疑ったよ」

「医者は直接あなたに言ったんですか?」

「ああ。
父も母も他界し、兄弟もどこにいるかわからない。
医者が『入院しろ』って言うから、
『おかしいなぁ~』って思って、俺から聞いたのよ」

「なるほど」

「じゃあ、『エイズです』って。
俺もおかしくなってしまってな。
気がついたら両足なくなって、ホスピスさ」

彼の苦笑は笑いに変わった。


彼は、自身がHIVに感染していることを苦しみ、
しばらくしてベトナム南北統一鉄道に飛び込み自殺を図った。
しかし、死ねなかった。
そのとき、両足を失ったが、幸いにも命は助かった。

その後、病院に搬送され、身寄りのない彼は、
社会からHIVポジティブだという理由で差別を受け、
そうしている間にエイズ・ホスピスに運ばれたという。


今年の初め、
彼はホスピスを出た。
毎日、決まった時間に薬を飲むという条件付で。

今、人里離れた田舎町で暮らし、
自分の人生やエイズに関する情報を整理し、
新聞社や雑誌社に記事を書いて売る仕事をしている。
隣の家の人に助けてもらいながら・・・。


彼は言う。

「今しか出来ないことは今するべきだ。
人間誰しもいつまで生きられるかわからない。
今、俺はやりたいことがある。
それは、社会に貢献すること。
俺の人生をあらわにすることで、
ひとりでのたくさんの命を救いたいんだ」


彼は何かを悟ったかのような笑顔になった。


僕は彼にひとつの言葉を送った。


「どんなに苦しくても
 どんなに辛くても
 人生に失敗はない」
      村山康文



f0164224_3521835.jpgギターをかき鳴らす彼

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by yasumu43jp | 2008-10-04 03:53 | ベトナム
オーマイニュースに記事が掲載されました
ベトナム戦争が残したもの ドキュメンタリー映画『花はどこへいった Agent Orange:a personal requiem』

ご覧いただき評価してくださると幸いです。
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by yasumu43jp | 2008-06-19 07:54 | お知らせ
ヘロインを打つ瞬間
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この3月、ベトナムのぼくが定宿にしているゲストハウスのそばでヘロインを打つ女性に遭遇した。

ぼくの近くにいた欧米人は、彼女を見て首を横に振りながらバインミー(ベトナム風サンドイッチ)を口へ運んだ。

人通りも多く、学生やこどもたちもその光景を見ていた。
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by yasumu43jp | 2008-05-15 22:07 | ベトナム
死刑と死刑報道についての一考察(公開処刑場の写真あり)
日本における過去の死刑についての報道があった。
みなさんご存知の方も多いと思う。

ぼくは、仕事柄かよく死刑について「賛成ですか?」「反対ですか?」と問われる。
正直言ってわからない。
ただ言えることは、残虐な行動を起こしたからといって、人を人が殺めてもいいのか、という疑問が浮かび上がることだ。

じゃあ、ブッシュ大統領のイラク攻撃はどうなるのか疑問になる。
国際裁判にかけられる必要がないのか。

日常と戦争において、状況は違えど、一人を殺せば「犯罪者」、多人数を殺せば「英雄」となりうる状況においても世界中が狂っているとしか思えない。


死刑報道については、ぼくはよくやったと思う。
一連の経過(裁判員制度導入を前に)の中で、文化放送(東京・ラジオ・5月6日放送)とテレビ朝日(東京・テレビ・4月29日放送)は、いい時期に報道した。

一番の問題は、主観だが、経済では確かに先進国だが、人の内面的には、まだまだ発展途上ではないかと感じる。

先進国において、死刑のない国は多くある。
日本人は往々にして賢い人種ではあるが、教育において根本を教えることが幼少時代に出来なかったがため、人の命を粗末に扱う傾向にあるのではないかとも思う。

言葉で表現するのは難しい。
非難は買おう。

下記に出す写真は、ベトナムの公開処刑場(写真:村山康文2003年撮影)。

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みなさんはどう感じるだろう。

下記に報道に関してのいくつかの記事とテレビ朝日の処刑報道をリンクしておく。

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死刑執行、瞬間の音を放送 ラジオ特番で文化放送 (共同)
2008年5月6日 17時41分

 AMラジオの文化放送(東京)は6日、報道特別番組「死刑執行」で、実際に死刑が執行される瞬間の音を放送した。裁判員制度の導入を前に、死刑の実態を伝えるのが目的という。

 同局によると、使用した音源は昭和30年代、刑務官の教育を目的に大阪拘置所で録音されたテープ。死刑囚と姉との最後の面会の様子、読経の声、死刑囚の立つ床板が外れてロープがきしむ音など10分弱を流した。

 番組は約1時間で、元刑務官らへのインタビューで構成され、刑場の様子や執行の手順、死刑囚・刑務官の置かれた状況を伝えた。

 放送後、同局には聴取者からさまざまな意見が寄せられた。「死刑について考える良い機会になった」など肯定的な声が多かったが、「犯罪被害者の声がなく公平性に欠ける」などの批判もあったという。

 テレビ朝日は4月29日、同じ音源を使って死刑執行の直前、直後の音を放送している。

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テレビ朝日「スーパーモーニング」4月29日放送分
http://static.vsocial.com/flash/ups.swf?d=222746&a=0
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by yasumu43jp | 2008-05-07 17:40 | 最新記事
ベトナムの結合双生児、兄のベトさんが死去(過去記事)
◎ベトナムの結合双生児、兄のベトさんが死去

 今月6日午前1時半ごろ、ベトナム戦争中に米軍が大量に散布した枯れ葉剤の影響により、結合双生児として生まれたとされる兄のグエン・ベトさんが、ベトナム南部のホーチミン市立ツーズー病院で死去した。26歳だった。死因は、同日午後2時に行われた病理解剖の結果、①肺炎、②腹部の内出血による貧血、③腎不全とされた。

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元気な頃のベトさん。手を握ると強く握り返してくれた(2006年2月撮影)

 ベトさんは、双子の弟ドクさんと、上半身が二つ、下半身が一つのY型に繋がった形で、1981年2月25日、同国中部ザライ省に産まれた。二人の下半身が繋がった結合双生児の写真は、ベトナム戦争の爪あととして世界中に発信され、衝撃を与えた。その姿は、特に日本でベトナム戦争被害者のシンボルとなり、大規模な支援活動が行われることとなった。85年6月には「ベトちゃんとドクちゃんの発達を願う会」が福井県敦賀市で結成。以降、「ベトちゃん・ドクちゃん」の愛称で多くの日本人に親しまれている。

 86年にベトさんが急性脳症を発症し、日本に移送され、東京都内の病院で治療を受けた。88年10月にはベトさんが意識不明の重体となり、二人ともが死亡してしまうのを避けるため、日本人医師たちも協力し、ツーズー病院で分離手術を行った。二人が7歳のとき。17時間にも及ぶ大手術は成功を収めたが、ベトさんには重度な脳障害の後遺症が残った。その後、ベトさんは同病院で寝たきりの状態が続いていた。

 ベトさんは、今までにも幾度かの病状悪化があった。今年5月末ごろから肺炎を発症。腹部内出血などを併発し、再び病状が悪化。集中治療室(ICU)で一時は重体となった。

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2006年12月16日、弟のドクさんが結婚した。お相手は、グエン・ティ・タイン・テュエンさん(25)

 一方、ドクさんは分離手術後、松葉杖を使って歩けるまでになった。中学校中退後、職業学校でコンピュータープログラミングを学び、現在は、同病院で事務員として働く傍ら、精力的にボランティア活動にも参加している。昨年12月16日、ドクさんは、友人の結婚式で知り合ったグエン・ティ・タイン・テュエンさん(当時24)とホーチミン市内で結婚式を挙げた。しかし、その披露宴にベトさんの姿はなかった。

 現地のドクさんの友人によると、ドクさんは、ベトさんの死後、「来年、分離手術から20年を迎えます。その節目まで兄には生きていて欲しかった。長い間、寝たきりで辛かったと思う。しかし、ようやく兄はゆっくりと休める場所へ行きました。今後は兄の分まで頑張っていきます」と涙ながらに話したという。

 ベトナム政府機関のレ・カオ・ダイ医師の著書「ベトナム戦争におけるエージェントオレンジ 歴史と影響」によると、61年から10年の間に米軍は、ベトナム全土に約7200万リットルの枯れ葉剤を散布した。その中に催奇形性や発がん性を持つ猛毒のダイオキシン類が、少なくとも170キロ含まれていたという。現在、ベトナム側の発表では、2世、3世への影響が指摘され、ベトナム戦争終結後に生まれた枯れ葉剤の影響と見られる結合双生児や脳性まひなどの重度障害児は、15万人以上に達するといわれている。

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ベトナム戦争後にも枯れ葉剤の影響とみられる重度障害児が産まれている。しかし、アメリカは、ベトナムにこれほどまで生まれる障害児を枯れ葉剤の影響だとは認めていない


 しかし、2004年、戦後初めて、ベトナム枯れ葉剤被害者協会と被害者家族の代表27人が米製薬会社に対して補償を訴えたが、枯れ葉剤の後遺症を訴える米退役軍人には84年に1億8000万ドルを支払うことで和解しているにも関わらず、翌年3月、「ベトナムでの枯れ葉剤の使用は戦争直前では国際法に反しない」「奇形などの症状と枯れ葉剤の因果関係を証明できていない」との理由で、米ニューヨーク州のブルックリン地裁は訴えを退けている。」

(文・写真:フォトジャーナリスト 村山康文)

(2007年10月16日 mixiみんなの写真館/村山康文写真館)
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by yasumu43jp | 2008-05-03 00:40 | 過去記事
悲しいお知らせ
夕方無事にベトナムに着いた。
早速あちらこちらに挨拶をして回っていると、友人の売春婦に久しぶりに会った。

今年26歳になる(自称)彼女と路上でビールを飲みながら話をした。

するといくつか彼女から悲しい話を聞いた。


なんとそれは、3ヶ月前に2人目の子どもを堕胎させたと言うこと。
以前、付き合っていたオーストラリア人の学校の先生の子ども。
一人目を数年前に下ろし、半年前「もう絶対に彼には会わない」と彼女は言っていた。

それが、2人目の子どもも同じ男の子どもだった。

彼女は、普段売春婦をしているが、そのオーストラリア人を愛していたのだ。

その話を聞いたとき、僕は彼女の一途な思いを食っているオーストラリア人の男に対し、怒りがこみ上げてきた。
無性に悲しくなった。


そして、なんと彼女は今また、一人の子どもを身ごもっている。
その子どもの相手はわからない。

「オーストラリア人かもしれないし、イギリス人かもしれない。韓国人かもしれないし、日本人かもしれない・・・」
淡々と彼女は話した。
「何ヶ月になるの?」
「多分2ヶ月に入ったと思う」
「産むの?」
いささかひどい聞き方だと思ったが、彼女は遠くを見つめてさらっと言った。
「もう殺したくない」
「相手がわからないんだろう?」
「でも私の子どもに違いない」
「じゃあもう今は売春はしてないんだね」
彼女は僕の目を見つめて言った。
「してるよ」
「駄目だろう。2ヶ月じゃ子どもが危ないよ」
僕は彼女を叱った。
「わかってる・・・。でもこの仕事をしないと生活ができないのよ」
僕は彼女から目をそらし、首を横に振った。


久しぶりのベトナムの街はどんどんと綺麗になり、たくさんの外国人観光客があとを絶たない。

しかし、その影でやはり今も取り残された人々がいる。

スラムで生まれ、学校に行けなかった彼女。
麻薬患者の弟のため、病気がちな親のため、妹には学校へ行かせてやりたいという姉の想い。
やさしすぎる彼女。

僕はやはりこの現実を伝えなくてはならない。

今回、いきなりのアッパーパンチの出迎えに、ふつふつとした僕の心はえぐられた。

(2006年08月12日 村山康文mixi日記)
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by yasumu43jp | 2008-05-02 07:35 | 過去記事
ホテル内窃盗事件
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事件は、2007年3月9日の朝に発覚した。
それは僕が泊まっていた同じホテルの2Fの一室で起きた。その部屋には日本人の妻をもらったスイス人とベトナム人女性の2人が宿泊していた。

彼は35歳。東京の一流大学の院で地質学を研究し、ベトナムへは大学の教授と一緒にベトナムの地質調査のために来越していた。僕が彼に会ったのは昨年9月に続き2度目だった。

昨年の9月に渡航した際、彼は一人寂しくバーに入り、ビールを飲んでいた。そのとき、バーで働いていたベトナム人女性と帰国後、メールでやり取りをしていたという。

「彼女も僕と同い年の35歳で、15歳になる子どもが一人いるんです。前回の帰国後メールでやり取りをしていても彼女の優しさが伝わってきます。彼女は約4年前に旦那と別れ、それからバーで働くようになったそうです」

嬉しそうに彼は僕に話した。

「彼女と同じ部屋で泊まっていても何も起きていません。彼女は、私のために朝食を運んでくれ、洗濯までしてくれます。調査で疲れ、ホテルへ帰ってきたら、彼女が笑顔で迎えてくれる。こんなに嬉しいことはありません」


事件は、彼の帰国前夜に起きた。
帰国日の朝、彼のウエストポーチがなくなっていたのだ。
朝8時ごろ彼は起きてきて、震えながら僕に話した。

「何があったのでしょう。普段は分けていた財布を一つのポーチにその日は入れていたんです。この一週間、地質調査のために使用したGPSとデジカメも入っていた。それが朝起きたら見事になくなっていた」

彼はがっくりと肩を落とし、僕のそばに座った。彼女もその隣で血相を変えていた。

しばらくして警察がホテルに来、身辺調査を行った。

僕は、彼と一緒に宿泊していた彼女をどこかで見た覚えがあった。
確か約4年前、彼女は僕に声をかけてきて、「私を買わないか」と言った女性だった。それからも売春婦として安宿街で身売りをしていた女性だ。

ホテルのメイドは次のように話した。
「彼女が盗ったのだ。昨夜、彼が眠りについた後、彼女はそのポーチを2Fのバルコニーから部屋の下にいた仲間に投げたのだろう。しかし、証拠がない」
路上に面した2Fのその部屋は小さなバルコニーがあった。

僕は、事件調査後、知り合いの警察官とホテルのメイド、野次馬などから彼のポーチの行方、事件の様相を次のように解釈する。

あくまで憶測である。

---

事件は、旅客の帰国前日に起きることが多い。なぜなら被害者が帰国すれば、足が付きにくくなるからだ。

彼と彼女は、昨夜、最終日前日ということもあり、たくさんのお酒を飲んでいた。彼は酔い、深い眠りについた。その後、彼女は、彼の金目のものを盗み、下にいた仲間に2Fのバルコニーから投げた。

しかし、彼女は、本当はそのようなことをしたくなかった。
子どもが11歳のとき、旦那と別れ、生活が苦しくなり、自らの体を酷使して仕事を始めた。しかし、その仕事もうまく行かず、ある人物から借金をしていたのだと思う。その人物、そのグループが今回の事件を彼女に起こさせたのではないか。

---

彼女は、その日警察で約5時間に及ぶ取調べを受けたあと、ホテルに帰ってきて、ウイスキーを飲みながら号泣していた。彼が帰宅したのは、彼女がホテルに帰ってきてから2時間もたたないうちだったが、ウイスキーの瓶は一瓶なくなりかけていたという。
彼女は、彼に支えられながらふらふらと階下に下りてきて、タクシーで自宅へ戻った。

彼女の住む街は、ホーチミン市1区ではあるが、細い路地の奥だ。
その地域は、ベトナム戦争当時、アメリカ側と共に戦ったベトナム人が多く住む。どれほど頑張っても、「アメリカと共に」という理由だけで上に上がれない人々が多い。


彼女は、生活のために体を売り、ものを盗る。


彼と僕は、帰国の日、タンソンニャット空港の出国ロビーで話をした。
彼は言う。
「彼女はとてもいい人なんです。たくさんの笑顔を私にくれた。彼女が私のものを盗ったとは思えません」

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<写真は2枚とも捜査をするベトナムの公安>
(このような写真は、普通撮影してはいけません。御注意ください)

(2007年04月27日 mixiみんなの写真館/村山康文写真館)
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by yasumu43jp | 2008-05-01 17:37 | 過去記事
人生は儚き夢の如し
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人生は儚き夢の如し


儚き(はかなき)という字は「人」の「夢」と書く。
人が見る夢のように、さっと見て、さっとなくなる(忘れる)。それを儚いという。

「人生は夢の如し」ではない。

儚いからこそ今生きている瞬間が大切なのだ。


人は皆、必ず死ぬ。
この世に生を持った生まれたときから人は皆、死に向かって生きている。

死に急ぐことなかれ。
今を苦しむことなかれ。


天を突く空は、いつか晴れるときが来る。

(2007年3月25日 村山康文mixi日記)
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by yasumu43jp | 2008-05-01 03:10 | 過去写真
ぼくはいつも遠くばかり見ていた
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ぼくはいつも遠くばかり見ていた
大切なものがこんなにも近くにあることに気付きもせずに

(2007年3月30日 村山康文mixi日記)
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by yasumu43jp | 2008-05-01 00:30 | 過去写真


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