Profile

村山康文
フォトジャーナリスト
1968年兵庫県生まれ。主にベトナムの社会問題をカメラとペンで追いかけ、弱者を守る立場からエイズ・戦争・人権・差別などをテーマに各地で写真展や講演会を開いている。
京都在住。

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枯れ葉剤被害少女の希望
枯れ葉剤被害少女の希望
無邪気な笑顔が見る風景

豊原 富栄(OhmyNews 2006-09-30 01:44)

 9月15日、ユンさんは関西国際空港での記者会見を終えて、準備されていたバスで京大医学部付属病院へと向かった。

 初めて見る日本の高速道路や街の景色について、隣に座った父親となにやら興奮気味に話している。「日本はどうですか?」と通訳のファン・リンさんを介して聞いてもらうと「きれいです」と答えてくれたものの、夢中になっていて“それどころじゃない”というような雰囲気だった。一番前に陣取り、過ぎていく風景を身を乗り出すようにして見る姿は年齢よりも幼く感じられる。

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カメラに向かって微笑むユンさん (撮影者:豊原富栄)

 途中、食事のために和風ファミリーレストランに入った。もともと硬いものは食べにくいので、チャーハンや焼きそば、スープ、ヨーグルトなどのあまり噛まなくてもいいものを食べていると聞いていた。しかし、メニューから彼女が選んだのは「ミックスプレート」だった。目玉焼きやハンバーグ、焼肉が盛られている。大丈夫かなという私の心配は杞憂に終わった。少しずつではあるがスプーンを使って食べ、添え付けのジャガイモは好きではないようだったが、ほとんど平らげた。日本食には抵抗がなさそうだし、意外に肉料理が好きということで、支援者たちの間には日本での生活の心配事が1つ消えたという安堵感が広がった。

 病院に到着する。初めての日本の病院に戸惑っているのか、ソファーに座って緊張の表情を見せていた。しかし、私がユンさんをくすぐってみるとすぐにキャタキャタと笑ってくれた。もともと人懐っこい性格なのだろう。思わず抱きしめたくなるような笑顔をくれるようになった。

 4階に形成外科がある。ここの片岡和哉先生が診察をしてくれることになっていた。福福しい顔をした先生だ。ユンさんの執刀をされる。顔の右半分を触診しながら、「難しいですね」と漏らす。

 事前に写真などで確認していたということだったが、そのときよりも状態は悪化しているのだ。特にここ最近で頭部に陥没が見られるようになった。確実に進行しているということになる。

 骨の変形がかなり酷く、右の頭がい骨が崩れてきていると思われる部分は特に詳しい検査が必要になるそうだ。「もしも崩れた骨の中に脳があれば、手を出せない」という。まずは、垂れ下がった腫瘍の部分を切除して様子を見るとともに、同時進行で頭部を中心とした骨の検査をしていくというのが基本方針のようだ。

 いい話も聞けた。垂れた腫瘍部分を切り取れば、もしかしたら唇が持ち上がるかもしれないというのだ。口の筋肉はまだ死んでおらず、今より大きく口を開けることができるようになるかもしれない。

 第一段階の手術は10月の上旬から中旬になるだろうが、それまでに多くの準備が必要だ。例えば、腫瘍を取り除く際は大量の出血が予想されている。そこで、1回400ccの血液を2回に分けて、計800ccをあらかじめ用意しなければならない。採血に耐えられるだけの体力や血量があればすぐに済む。しかし、健康状態が優良とは考えにくいので、これに時間をとられることが予想される。そうなれば必然的に手術までの日数が延びてしまう。限られた資金の中でそれは大きな問題になってくるかもしれない。

 先生は顔だけでなく、左手のマヒの状態や左足のマヒの具合を診る。このマヒについて「断定はできないが、右の頭がい骨の変形が神経を圧迫するか、そこにも問題があるかでマヒが出ていると考えられる」ということだ。父のドー・タン・ファットさんの話では、「幼いころから左手が内向きに曲がっていて、左足のマヒはもっと酷かった。練習して歩けるようになった」ということだった。痛みを自覚したのがいつごろかは定かではないが、少なくとも生まれたときから変形が始まっていたのではないかという。

 とにかく詳しい検査をしてデータを集め、脳外科やさまざまな分野のエキスパートたちが対策を練ることになる。最後に先生自らが資料用にと写真を撮って診察は終了した。病室では緊張もしていたが、カメラを向けると笑いかけてくれる。診察用のベッドに腰掛けるようユンさんに合図されたので隣に座ると、甘えて顔をくっつけたり抱きついたりしてくる。プーさんの人形を指差して微笑む姿はとても愛らしい。これから手術の準備をしていくのにこれだけの笑顔を見せる。「怖くない?」と聞いてもらうと、「大丈夫。嬉しい」と答えてくれた。前向きな性格なのだ。

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採血をする。健康状態の検査のためだ。 (撮影者:豊原富栄)

 心電図を済ませ、採血に臨むときは緊張がかなりほぐれていた。注射のまねをしてみせると笑っていた。とはいえ、実際に針が刺さるときは少し顔をしかめていた。血管は細く、採血自体に時間がかかった。これから合わせて800ccも採るかと思うと心配になるほどだった。10年くらいの日数をかけて徐々にもとのかわいい笑顔を取り戻すため、手術や検査をこれからひとつひとつ越えていかなければならない。問題はこれからだ。

 無邪気にはしゃぎながら検査を受けるユンさんに将来の夢を聞いてみた。すると「勉強をしたい。どんなことが学べるか分からないけれど、勉強をしたい」と言う。ベトナムの枯れ葉剤認定患者の中には、彼女のように直接ベトナム戦争には関係していない世代が含まれている。これは、戦争経験者以外にまで被害が広がっているということを意味しているのだろう。

 ユンさんに接していると、戦争が後にまで影響するということについて考えさせられる。ベトナム戦争が原因と言われる枯れ葉剤被害や広島・長崎における原爆後遺症の問題がそうだ。他にもユンさんのように明確に分かる被害だけでなく、心身に重大な影響を受けている場合があると言われている。ベトナム戦争に従軍した米兵の精神被害がその例として挙げられるだろう。これらは明らかに戦争被害と言えるはずだ。こういった後から分かる現実に対して目を背けないためにも、戦争を知り考えることは意味があることだと私は思う。
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by yasumu43jp | 2009-04-23 22:59 | 過去記事
枯れ葉剤被害少女が訴えかけるもの
枯れ葉剤被害少女が訴えかけるもの
命の危険と戦う ベトナムのユンさん

豊原 富栄(OhmyNews 2006-09-16 17:13)

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カメラに微笑むユンさん (撮影者:村山康文)
 ドー・トゥイ・ユンさん18歳。ベトナムに住む女の子だ。彼女は顔の右半分が大きく変形し、手術をしなければ生命の危険すらある状況におかれている。

 そのユンさんが15日、日本での「ユンちゃんを支援する会」(代表、村山康文さん)などの募金活動が実り、京都大学医学部付属病院(京都市左京区)で手術を受けるために来日した。

 彼女の顔に痛み出したのは7歳になったころ。今では顔の右半分が重く垂れ下がり、右目は見えなくなっている。頭がい骨にも変形が見られ、右足と右手にも麻痺症状が出始めているという。

 彼女の父、ドー・タン・ファットさんは1960年から1975年の間に起こったベトナム戦争時、同国南部のドンタップ省やカマウ省などにおり、その際にアメリカ軍の散布した枯れ葉剤を浴びたという。

 枯れ葉剤は、密林に潜むゲリラ対策の一環として米軍が散布した化学兵器。猛毒のダイオキシンを含んでいた。ベトナム戦争中に散布された枯れ葉剤は、7200万リットルを超える。その毒性は遺伝子レベルにまで影響を及ぼす恐れがあると言われ、散布地域においては、がんや先天性の異常のほか、流産や死産などが特に多発しているという報告もある。

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 ユンさんは3年前に、ベトナム政府から枯れ葉剤被害者として認定された。両親が戦争中に枯れ葉剤を散布された地域にいたことがその理由だという。政府からは、月35万5000ドン(約2600円)の援助を受けているが、これでは進む症状に対処するには十分とはいえない。

 医学的には、ダイオキシンとユンさんに見られる症状の因果関係は、まだ証明されていない。他の多くの枯れ葉剤認定患者も同様である。このことが、ベトナム戦争終戦から30年たった今でも問題となっている。

 今年3月に米ニューヨーク州の地裁では、製薬会社37社を相手にベトナム枯れ葉剤被害者協会と被害者家族ら27人が賠償などを求めた集団訴訟で、訴えの棄却が言い渡された。奇形などの症状と枯れ葉剤の因果関係を証明できていないというのが、その理由の1つだ。原告側は決定を不服として控訴し、現在も係争中である。一方、1984年に同様の訴えを起こした米退役軍人による集団訴訟では、製薬会社側が1億8000万ドルを支払うことで和解が成立している。今回の判決を受けベトナムでは、この84年の和解判決との差に反発が広がった。

 しかし、こうした政治や科学因果関係の論争は、ユンさんをはじめとする患者たちにとって、あまり意味があるものではないのかもしれない。患者たちは今この瞬間も、痛み、苦しみ、そして命懸けで戦っているのだから。

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ユンさんと村山康文さん(ベトナムにて)(写真提供:ユンちゃんを支援する会)
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by yasumu43jp | 2009-04-23 22:53 | 過去記事
ベトナム戦争が残したもの
ベトナム戦争が残したもの
ドキュメンタリー映画『花はどこへいった Agent Orange:a personal requiem』

村山 康文(OhmyNews 2008-06-19 07:00)

f0164224_22342278.jpg  「1968年にわたしは京都大学に入学しました。当時盛んだったベトナム戦争反戦運動は、正直、何が目的で、どこへ向かうのか見えませんでした」

 枯れ葉剤をテーマにしたドキュメンタリー映画「花はどこへいった」の監督・坂田雅子さん(59)は話した。

                            監督の坂田雅子さん=6月17日

 最愛なる夫、フォトジャーナリストのグレッグ・デイビス氏(享年54)を2003年春に肝臓がんで亡くした。彼の死は、ベトナム戦争時に浴びた枯れ葉剤が原因ではないか、と友人に示唆され、事実を確かめたい一身で、翌2004年、彼女は映画撮影に踏み切った。

 18歳でベトナム戦争に送られ、南部のロンタン米軍基地に所属していたグレッグ氏。戦争時、基地の周りはゲリラが潜入できないように枯れ葉剤がまかれ、草木がすべて枯らされていたという。

 70年、加害者であると同時に被害者でもある彼は、祖国アメリカを捨て、日本でフォトジャーナリストとして活動を開始。そこで22歳の彼女と出会う。

 「当時、ベトナム戦争に参戦したことや枯れ葉剤を浴びたことは、彼は多くを語ろうとしませんでした」

 ベトナム政府機関の「ベトナムにおける化学戦争の被害調査国内委員会」代表だったレ・カオ・ダイ医師の著書『ベトナム戦争におけるエージェントオレンジ 歴史と影響』によると、米軍は61年から10年間で、ベトナムに約7200万リットルの枯れ葉剤を散布。その中には催奇性や発がん性を持つ猛毒のダイオキシンが少なくとも170キロ含まれていたという。

 現在、2世、3世への影響が指摘され、ベトナムでは100万人以上が後遺症に苦しんでいるといわれている。

 「とても優しくていい人でした。この映画は、グレッグの遺志を継いだようなものです」

f0164224_22373259.jpg 夫グレッグ氏に対する深い愛情と、ベトナムの枯れ葉剤被害者に対する彼女の熱情が交差する映画。作中で語るグレッグ氏の言葉には、ジャーナリズムに対し、疑問を抱きながら真実を見てほしいという強い願いも込められている。



                            子どもたちの標本=2006年2月

■関連リンク
花はどこへいった
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by yasumu43jp | 2009-04-23 22:40 | 過去記事
コンドームの正しい使い方を知っていますか?
コンドームの正しい使い方を知っていますか?
   ピア・エデュケーションで楽しく学ぶ性
村山 康文(OhmyNews 2008-05-22 21:00)

 「コンドームの正しい使い方をあなたは知っていますか? もしもあなたの大切な人がエイズだったらどうしますか?」

f0164224_22132026.jpg 5月21日、京都第一赤十字病院看護専門学校で赤十字ユース・ボランティア(RCY)4名とアドバイザー2名(18歳~27歳)によるピア・エデュケーションの授業が1年生の学生39名(うち男性3名)を対象に行われた。



                                   授業の様子

 ピア・エデュケーションとは、同世代の仲間(ピア)と一緒に共感しながら、大切なことを学ぶことで、この日は「若者の性・性病・恋愛」についての話で盛り上がった。

 授業は、学生たちと同年代のボランティアとアドバイザーの自己紹介に始まり、たった2つの授業のルールが説明された。

<ルール>
(1)パスをする権利:触れたくないこと、言いたくないことはパスができる
(2)ノンジャッジメンタル:他人の意見を評価および否定せず、受け入れる

f0164224_22215258.jpg その後、6~7人くらいの班に分けられ、個々人にA4用紙1枚のクイズが渡された。問題は、避妊・STD/HIV感染予防に関するものでまとめられている。その答えを分けられた班でディスカッションののちまとめ、ボランティアが答え合わせをする。

 すると、意外にも正解の確率が低い。知っているようで知らない性の知識。学生たちは笑いながらも顔が真剣になってくる。




 渡されたクイズの答えを考える学生

 この日、アドバイザーとして参加した関西セクシュアルヘルスユースネットワーク事務局長清水誓子さん(27)は話す。

 「大学に入って、今までの性教育がまったくといっていいくらい役に立ちませんでした。同世代の人たちと恋愛の話や性の話をするほうが、実践的だと思ったんです」

 説明にはスライドも使われた。そのあと、コンドームの使用法の実演が行われ、学生たちは真剣に性について学んだ。

 授業に参加していた女子学生のAさん(18)は、「このような授業は、中学、高校でも学んだことがありません。同世代の人たちが、ここまで考えているのを見ると、わたしも性について見つめなおさなければ、と感じました。普段、彼とはセーファーセックスをしていますが、今日の授業に参加して、もう一度彼に自分の気持ちを伝えようと思いました」と話した。

f0164224_2224273.jpg教室では、「リラックスできるカフェのように」とBGMが流れ、優しい心配りがされた

f0164224_22251989.jpg分けられた班で笑いながらディスカッションをする学生

f0164224_22252860.jpgスライドを利用し、性について学生たちに必要な知識を再確認してもらう

f0164224_22253749.jpgコンドーム使用法の実演をするRCYのボランティア

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国内で手に入るコンドーム。女性用のものもある

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by yasumu43jp | 2009-04-23 22:30 | 過去記事
解離性同一性障害者からの電話
精神的な病気を持ってしまった26歳の女性から久しぶりに電話があった。
1年ぶりくらいだ。

約1時間電話で話をしていた。

彼女は以下の病名をもらっている。
1.うつ病
2.摂食障害
3.パニック障害
4.解離性同一性障害

<精神疾患>
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%96%BE%E6%82%A3

<解離性同一障害>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E9%87%8D%E4%BA%BA%E6%A0%BC

問題は解離性同一性障害だ。
彼女は16人が彼女自身に同居している。
僕は、彼女からかかってきた過去の数百本の電話で幾人かにあったことがある。
「彼女」「乳飲み子」「老いぼれたおじいさん」「ヤンキー青年」「少女」。

僕はただ「うん、うん」と話を聞くだけ。
これと言ってこちらからは「良い、悪い」は言わない。

彼女は何故僕に電話をするのだろう。
それは、数年前、ぼくの主催したベトナム・スタディーツアーに参加した子だからだ。

彼女の中でベトナムは切っても切り離せないらしい。

僕のツアーでは、孤児院やエイズ・ホスピス、性的虐待を受けた女の子たちの施設を訪問する。

ツアー中、なかでも彼女は、性的虐待を受けた女の子たちの施設にかなりの興味を持っていた。
訪問後にホテルの隅で泣き崩れていた彼女を、僕は今でも忘れない。
それが、ツアー中、何故、彼女が虐待の施設に興味を持ち、ホテルの隅で泣き崩れたのか僕にはかわからなかった。

帰国後、しばらくして、彼女は精神病院に入院したことを友人に聞いた。
約2年の入院後、彼女からいきなり僕に電話があった。

「村山さん、お元気ですか?」
彼女は元気そうな声ではしゃぎながら電話をくれた。
「元気していますよ。お久しぶりですね」
僕は驚きを隠せなかった。
なぜなら、彼女がこんなにもはしゃいだ声で電話してくるとは思わなかったからだ。
「あたし、精神病院に入院してたんですよ」
「ああ。○○くんから聞いてたよ」
「そう。『村山さん元気かナァ~』って思って電話してみました」
「ありがとう」

その日から毎日毎日、彼女から電話がかかってくるようになった。
ある日は、彼女自身が。また、ある日は途中からドスの聞かせた声で脅したり。また別の日には、乳飲み子のように甘えてみたり。

彼女が何故、病気になったのかを彼女自身から聞いたのは、しばらくしてからのことだった。

「あたし、実は、実父に幼少期に性的な虐待を受けていたんです。そして、高校時代にレイプされたことがあって。ずっとずっと誰にも言わなかった。そうしたら・・・」

社会復帰のために一度は自宅療養をしたが、また彼女は入院をしていた。


2回目の退院後、彼女から電話があった。
さっきである。
彼女は、先の電話でこう言う。

「村山さんとベトナムにはすごく感謝しているんですよ。嘘じゃないです。あたしがあたしらしく生きていける場所。それがベトナムにあったような気がして。その場所を愛し、その場所を紹介してくれた村山さんに心から感謝したいんです」

病気のため、大学を2年休学していた彼女は、今年の4月、復学した。

将来、保育士になりたいと言う彼女。

「ベトナムで青い空の下、様々な子どもたちと関わってきたわたしの目標です」

彼女の笑顔を僕は決して忘れない!

(2006年11月17日 村山康文mixi日記)
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by yasumu43jp | 2008-05-04 21:21 | 過去記事
ベトナムの結合双生児、兄のベトさんが死去(過去記事)
◎ベトナムの結合双生児、兄のベトさんが死去

 今月6日午前1時半ごろ、ベトナム戦争中に米軍が大量に散布した枯れ葉剤の影響により、結合双生児として生まれたとされる兄のグエン・ベトさんが、ベトナム南部のホーチミン市立ツーズー病院で死去した。26歳だった。死因は、同日午後2時に行われた病理解剖の結果、①肺炎、②腹部の内出血による貧血、③腎不全とされた。

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元気な頃のベトさん。手を握ると強く握り返してくれた(2006年2月撮影)

 ベトさんは、双子の弟ドクさんと、上半身が二つ、下半身が一つのY型に繋がった形で、1981年2月25日、同国中部ザライ省に産まれた。二人の下半身が繋がった結合双生児の写真は、ベトナム戦争の爪あととして世界中に発信され、衝撃を与えた。その姿は、特に日本でベトナム戦争被害者のシンボルとなり、大規模な支援活動が行われることとなった。85年6月には「ベトちゃんとドクちゃんの発達を願う会」が福井県敦賀市で結成。以降、「ベトちゃん・ドクちゃん」の愛称で多くの日本人に親しまれている。

 86年にベトさんが急性脳症を発症し、日本に移送され、東京都内の病院で治療を受けた。88年10月にはベトさんが意識不明の重体となり、二人ともが死亡してしまうのを避けるため、日本人医師たちも協力し、ツーズー病院で分離手術を行った。二人が7歳のとき。17時間にも及ぶ大手術は成功を収めたが、ベトさんには重度な脳障害の後遺症が残った。その後、ベトさんは同病院で寝たきりの状態が続いていた。

 ベトさんは、今までにも幾度かの病状悪化があった。今年5月末ごろから肺炎を発症。腹部内出血などを併発し、再び病状が悪化。集中治療室(ICU)で一時は重体となった。

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2006年12月16日、弟のドクさんが結婚した。お相手は、グエン・ティ・タイン・テュエンさん(25)

 一方、ドクさんは分離手術後、松葉杖を使って歩けるまでになった。中学校中退後、職業学校でコンピュータープログラミングを学び、現在は、同病院で事務員として働く傍ら、精力的にボランティア活動にも参加している。昨年12月16日、ドクさんは、友人の結婚式で知り合ったグエン・ティ・タイン・テュエンさん(当時24)とホーチミン市内で結婚式を挙げた。しかし、その披露宴にベトさんの姿はなかった。

 現地のドクさんの友人によると、ドクさんは、ベトさんの死後、「来年、分離手術から20年を迎えます。その節目まで兄には生きていて欲しかった。長い間、寝たきりで辛かったと思う。しかし、ようやく兄はゆっくりと休める場所へ行きました。今後は兄の分まで頑張っていきます」と涙ながらに話したという。

 ベトナム政府機関のレ・カオ・ダイ医師の著書「ベトナム戦争におけるエージェントオレンジ 歴史と影響」によると、61年から10年の間に米軍は、ベトナム全土に約7200万リットルの枯れ葉剤を散布した。その中に催奇形性や発がん性を持つ猛毒のダイオキシン類が、少なくとも170キロ含まれていたという。現在、ベトナム側の発表では、2世、3世への影響が指摘され、ベトナム戦争終結後に生まれた枯れ葉剤の影響と見られる結合双生児や脳性まひなどの重度障害児は、15万人以上に達するといわれている。

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ベトナム戦争後にも枯れ葉剤の影響とみられる重度障害児が産まれている。しかし、アメリカは、ベトナムにこれほどまで生まれる障害児を枯れ葉剤の影響だとは認めていない


 しかし、2004年、戦後初めて、ベトナム枯れ葉剤被害者協会と被害者家族の代表27人が米製薬会社に対して補償を訴えたが、枯れ葉剤の後遺症を訴える米退役軍人には84年に1億8000万ドルを支払うことで和解しているにも関わらず、翌年3月、「ベトナムでの枯れ葉剤の使用は戦争直前では国際法に反しない」「奇形などの症状と枯れ葉剤の因果関係を証明できていない」との理由で、米ニューヨーク州のブルックリン地裁は訴えを退けている。」

(文・写真:フォトジャーナリスト 村山康文)

(2007年10月16日 mixiみんなの写真館/村山康文写真館)
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by yasumu43jp | 2008-05-03 00:40 | 過去記事
悲しいお知らせ
夕方無事にベトナムに着いた。
早速あちらこちらに挨拶をして回っていると、友人の売春婦に久しぶりに会った。

今年26歳になる(自称)彼女と路上でビールを飲みながら話をした。

するといくつか彼女から悲しい話を聞いた。


なんとそれは、3ヶ月前に2人目の子どもを堕胎させたと言うこと。
以前、付き合っていたオーストラリア人の学校の先生の子ども。
一人目を数年前に下ろし、半年前「もう絶対に彼には会わない」と彼女は言っていた。

それが、2人目の子どもも同じ男の子どもだった。

彼女は、普段売春婦をしているが、そのオーストラリア人を愛していたのだ。

その話を聞いたとき、僕は彼女の一途な思いを食っているオーストラリア人の男に対し、怒りがこみ上げてきた。
無性に悲しくなった。


そして、なんと彼女は今また、一人の子どもを身ごもっている。
その子どもの相手はわからない。

「オーストラリア人かもしれないし、イギリス人かもしれない。韓国人かもしれないし、日本人かもしれない・・・」
淡々と彼女は話した。
「何ヶ月になるの?」
「多分2ヶ月に入ったと思う」
「産むの?」
いささかひどい聞き方だと思ったが、彼女は遠くを見つめてさらっと言った。
「もう殺したくない」
「相手がわからないんだろう?」
「でも私の子どもに違いない」
「じゃあもう今は売春はしてないんだね」
彼女は僕の目を見つめて言った。
「してるよ」
「駄目だろう。2ヶ月じゃ子どもが危ないよ」
僕は彼女を叱った。
「わかってる・・・。でもこの仕事をしないと生活ができないのよ」
僕は彼女から目をそらし、首を横に振った。


久しぶりのベトナムの街はどんどんと綺麗になり、たくさんの外国人観光客があとを絶たない。

しかし、その影でやはり今も取り残された人々がいる。

スラムで生まれ、学校に行けなかった彼女。
麻薬患者の弟のため、病気がちな親のため、妹には学校へ行かせてやりたいという姉の想い。
やさしすぎる彼女。

僕はやはりこの現実を伝えなくてはならない。

今回、いきなりのアッパーパンチの出迎えに、ふつふつとした僕の心はえぐられた。

(2006年08月12日 村山康文mixi日記)
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by yasumu43jp | 2008-05-02 07:35 | 過去記事
差別・人権無視ってなんだろう-ヨイトマケの唄
昨夜遅くから、なぜか青春時代を振り返っていた。

You Tubeで「おにゃんこクラブ」や「高井麻巳子」の音楽を懐かしみながら聴いていた。


You Tubeのリンクを開きながら次々と聴いていくと、「ヨイトマケの唄」にたどり着いた。

サザンの桑田佳祐がカバーしているのを聴いた。
涙が出た。

メロディーも去ることながら歌詞に心が揺すぶられた。
じっくり聴くと「土方(どかた)」という言葉が耳についた。

差別用語だ。

ヨイトマケの唄を調べた。

---

Wikipedia-「ヨイトマケの唄」から

1990年、美輪が「ぴりっとタケロー」に出演する際にこの歌を披露する予定だったが、歌詞の中に差別用語と扱われる「土方」(どかた)「ヨイトマケ」が含まれている点などから、放送局のTBSは歌のカットを求めた。出演依頼があった際、美輪は「(出演だけで)歌無しで」と希望したが、制作会社の強い希望で、「ヨイトマケ~」を歌うことになった。が、放送日2日前に突然「歌は止めて欲しい」という申し出。勝手な言い分に美輪は憤慨し、出演自体を取り止めた。このことがきっかけで美輪は、テレビで歌うことを避けるようになった。

---

美輪明宏は槇原敬之とこの唄について対談をしている。

その中で美輪は次のようなことを言っている。

「全国から、あれは差別撤廃の唄で、自分たちの応援歌だから、労働者のみなさんやいろんな人たちから励ましの電話があって、だけど有識者という学者馬鹿の人たちが、自分たちで勝手に『彼ら(有識者)のほうに差別意識がある』ということを肯定したわけですよ」

---

ぼくはこんなことがあったことを知らなかった。

どうか聴いて欲しい。
すばらしい曲だ。

人が人を差別し、人の権利を無視する。

ぼくもメディアに携わる人間である以上、この問題は常に付きまとう。
じっくり考えていかなければならないだろう。


【参考】
■ヨイトマケの唄-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B1%E3%81%AE%E5%94%84

■ヨイトマケの唄-槙原カバー&美輪との対談(You Tube)(不明)
http://www.youtube.com/watch?v=FjkVxf0EQkA&feature=related

■ヨイトマケの唄-美輪明宏(You Tube)
http://www.youtube.com/watch?v=sxHf7xW12xg&feature=related

-桑田佳祐(You Tube)
http://www.youtube.com/watch?v=aERA0fuWksM&feature=related

-米良美一・女子刑務所にて(You Tube)
http://www.youtube.com/watch?v=b1yyVAAHblE&feature=related

-中村美律子(You Tube)
http://www.youtube.com/watch?v=TYaxv-Pwk_0&feature=related

-泉谷しげる(You Tube)
http://www.youtube.com/watch?v=V_lKVI7LoN8&feature=related

-フォーククルセイダーズ(You Tube)
http://www.youtube.com/watch?v=2hvirWkQMRU&feature=related


【歌詞】
 ヨイトマケの唄

 今も聞こえる ヨイトマケの唄
 今も聞こえる あの子守唄
 工事現場の昼休み
 たばこふかして 目を閉じりゃ
 聞こえてくるよ あの唄が
 働く土方の あの唄が
 貧しい土方の あの唄が

 子供の頃に小学校で
 ヨイトマケの子供 きたない子供と
 いじめぬかれて はやされて
 くやし涙に暮れながら
 泣いて帰った道すがら
 母ちゃんの働くとこを見た
 母ちゃんの働くとこを見た

 姉さんかぶりで 泥にまみれて
 日にやけながら 汗を流して
 男に混じって ツナを引き
 天に向かって 声をあげて
 力の限り 唄ってた
 母ちゃんの働くとこを見た
 母ちゃんの働くとこを見た

 なぐさめてもらおう 抱いてもらおうと
 息をはずませ 帰ってはきたが
 母ちゃんの姿 見たときに
 泣いた涙も忘れ果て
 帰って行ったよ 学校へ
 勉強するよと言いながら
 勉強するよと言いながら

 あれから何年経ったことだろう
 高校も出たし大学も出た
 今じゃ機械の世の中で
 おまけに僕はエンジニア
 苦労苦労で死んでった
 母ちゃん見てくれ この姿
 母ちゃん見てくれ この姿

 何度も僕もぐれかけたけど
 やくざな道は踏まずに済んだ
 どんなきれいな唄よりも
 どんなきれいな声よりも
 僕を励ましなぐさめた
 母ちゃんの唄こそ 世界一
 母ちゃんの唄こそ 世界一

 今も聞こえる ヨイトマケの唄
 今も聞こえる あの子守唄



 時は神武景気。美輪さんの美貌は神武以来の美少年とうたわれ、性別を超えた華やかなスタイルで映画や舞台に引っ張りだこでした。ところが、異常なまでに盛り上がった美輪さんの人気はわずか数年しか続きませんでした。60年に入ると、土地・株が暴落。多額の借金だけが残りました。落ちぶれたスターと呼ばれ、地方巡業の仕事ばかりとなった美輪さん。そんな時、ある炭鉱の町で舞台に立ちます。
 「穴ぼこだらけの舞台に何度か細いハイヒールのかかとをめり込ませながら、あきらめ顔、ヤケッパチで歌っていたら、すぐ足元まで鈴なりになっている老若男女の顔、顔、顔の絵巻を見た時に、私は言いようのない戦りつを受けた。私は何をしているのだろう。この人たちの命を削って得た金で鼻歌を歌っているのだ。私はにわかに自分の贅沢に着飾ったクジャクのようなザマが異様な道化師のように思えた。最後まで必死に努めるのがやっとだった。」
 美輪さんの胸に、小学生の頃に見た光景がよみがえりました。家族のために汗まみれになって働く母親たちの姿です。美輪さんはその想い出を曲にし、きらびやかな衣装やメイクを取り去って歌い始めました。その時に出来た作品がこの「ヨイトマケの唄」でした。
 (NHK放送「美輪明宏・一番美しいもの」より)

(2008年4月15日 村山康文mixi日記)
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by yasumu43jp | 2008-04-30 18:33 | 過去記事


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